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戦闘機「紫電改」



郡是(ぐんぜ)工業株式会社。
そうです、あの肌着メーカーのグンゼが戦闘機の紫電改を制作していたのです。

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紫電改↑


水上機を製作していた川西航空機株式会社が、海軍の陸上機として昭和18年から量産を始めた戦闘機が、局地戦闘機の紫電(しでん)である。
その紫電を全面的改良したのが紫電改(しでんかい)。
紫電改は昭和20年に正式採用されている。


第二次世界大戦さなかの昭和18年9月、郡是(ぐんぜ)製糸株式会社は製糸業統制法によって軍需転換を余儀なくされた。
郡是製糸株式会社の八鹿(ようか)工場は、川西航空機姫路製作所の協力会社として、紫電・紫電改を生産するようになったのである。
八鹿工場から昭和18年10月、第1期生が姫路製作所に104名、本社の鳴尾(なるお)製作所に13人が研修に派遣された。
昭和19年には紫電の製作を開始し、5月には郡是工業株式会社八鹿航空機製作所と名称を改めた。
昭和20年4月になると、空襲に備えて川西航空機鳴尾製作所の疎開工場として福知山工場が操業開始。
北近畿にある郡是工業株式会社を中心として紫電改の生産体制が確立された。


終戦時に八鹿製作所では1800人の労働者の他、学徒動員された豊岡高等女学校の生徒、女子挺身隊(14歳以上25歳以下の女性が勤労する団体のこと。男性の代わりである)として徴用された女性も働いた。
福知山工場は主翼、八鹿工場は胴体・水平安定板・昇降舵、養父(やぶ)工場では補助翼、綾部(あやべ)工場では計器類、梁瀬(やなせ)工場ではパラシュート紐などを生産していたという。
川西航空機福知山工場でそれらを組み立て、福知山飛行場でテスト飛行。


しかし、昭和20年6月に川西航空機姫路製作所も鳴尾製作所も空襲で焼失。
川西航空機の主力工場が壊滅的なダメージを受けたので、北近畿に作られた工場が紫電改の生産拠点となったがやがて終戦を迎えた。


昭和20年秋、八鹿工場に残っていた飛行機は、進駐軍の命令により工場裏の八木河原で焼却。
だが倉庫には加工する前のジュラルミン板などの材料が多く残った。

紫電改になるはずだったジュラルミンは、洗面器・米びつ・弁当箱・下敷き・文房具入れの箱などに生まれ変わった。
表面には紅葉などをあしらった緑色や茶褐色の塗装が施された。
戦闘機の塗装技術が使われたのである。
また、箱の四隅は折り曲げて鋲打ちされている。
戦闘機を作る技術と材料で、ジュラルミン製の生活用品が生産されたのである。
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