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兵庫の地名にまつわる伝説など




【阿古谷 あこたに】(川辺郡猪名川町、豊岡市竹野町)
阿古谷(※阿古屋とも言う)とは「悪谷」の意で、太古その地で風葬或いは遺棄葬が行なわれていた土地を指すといわれる。
但し、すべての阿古谷の地名の起源がそうという訳ではなく、風葬・遺棄葬が行なわれていた場所か否かについては不明である。
尚、実際に風葬、遺棄葬が行なわれていた場所は忌み地として今も住む事を避けるという。

<参考地>
・川辺郡猪名川町阿古谷(あこたに)

・豊岡市竹野町阿金谷(あこんだに)
海抜20m程の狭い尾根上に四基の古墳が確認されている。
木棺墓が発掘されており、鉄剣などが出土している。
古墳が有るところから考えて古代からの葬儀の場である可能性が高い

・阿古谷神社(あこたにじんじゃ)豊岡市竹野町轟字森脇
神社周辺が土師部(阿古氏)の居住地であったことからその名前がついたとされている。
風葬、遺棄葬とは無関係。



【イヤ谷 いやたに】(神戸市、宝塚市)
イヤ谷(※弥谷とも言う)とは「嫌谷」の意で、太古その地で風葬或いは遺棄葬が行なわれていた土地を指すという。
但し、すべてのイヤ谷の地名の起源がそうという訳ではなく、風葬、遺棄葬が行なわれていた場所か否かについては不明である。
尚、実際に風葬、遺棄葬が行なわれていた場所は忌み地として今も住む事を避けるという。

<参考地>
・宝塚市長谷イヤ谷小畑
・神戸市北区 イヤガ谷
・神戸市兵庫区里山町 伊屋谷口(旧 夢野村字伊屋谷口)
・神戸市須磨区妙法寺字イヤガ谷



【市後谷 いちごだに】(兵庫県神戸市長田区長田天神町・滝谷町界隈)
天神山の東麓に「字市後谷」の名があった。
『西摂大観』は市後谷の「いちご」は「市子」の事で、長田神社に仕えた巫女の居住地であったのではないかと推測されている。



【覆盆子谷 いちごだに】(兵庫県西宮市塩瀬町生瀬 覆盆子谷)
神戸市長田区の市後谷と同じく、神に仕えた巫女(市子)の居住地だったのだろうか。



【市の子 いちのこ】(兵庫県神戸市垂水区名谷町(旧 小字市の子))
神戸市長田区の市後谷と同じく、神に仕えた巫女(市子)の居住地だったのだろうか。
或いは、「一の講」、「一の子」などに拠るものか。



【禁野 いみの】(兵庫県神戸市兵庫区夢野町)
古代、朝廷の禁猟地で有った場所で、禁野(いみの)が訛伝して夢野になったのではないかと言われる。



【忌の木 いみのき】(兵庫県神戸市灘区弓木町)
当地に御神木があったことから、忌の木(いみのき)が訛伝して弓木になったのではないかと言われる。



【腕塚町 うでづかちょう】(兵庫県神戸市長田区腕塚町)
薩摩守平忠度の墓所(腕塚)から名付けられる。
平忠度は平清盛の末弟で、文武に秀でた将であったといわれる。
寿永三年(1184)、一の谷の合戦に敗れた忠度は、駒ヶ林目指して落ちてゆく途中このあたりで岡部忠澄と出遭い、忠澄を組み敷き首を討ち取ろうとした時、忠澄の家臣に後ろから右腕を切り落とされ、覚悟を決めた忠度は静かに念仏を唱えて討たれたという。
現在、「忠度塚」と刻まれた大きな自然石は駒ヶ林町四丁目にあり、「腕塚」と呼ばれている。
また、野田町八丁目にも忠度塚があり、こちらは「胴塚」と呼ばれている。



【馬バケ】(兵庫県神戸市北区有野町有野(旧 字馬バケ))
詳細不明。
「馬場ケ」或いは「馬駆け」の意か。



【青木 おおぎ】(兵庫県神戸市東灘区青木)
伊邪那岐命が禊をした樟原(あわぎがはら)より青木(おうぎ)と名付けられたという。
『古事記』は、伊邪那岐命が死んだ妻伊邪那美命を黄泉の国に訪ね、そこで八人の醜女と八色の雷に追われた。
危うく逃げ帰った伊邪那岐命は樟原(あわぎがはら)で禊をしたところ住吉三神が生まれたと伝える。



【大蔵谷 おおくらだに】(兵庫県明石市大蔵谷町 他)
その昔、この辺りでは苧(お=麻)が栽培されており、その苧でわらじの鼻緒を作っていたという。
ある夏の夕暮、旅の途中の弘法大師がこの地を訪れた時のこと、履いていたわらじの鼻緒が切れてしまったので、村人に緒を所望したのだが、誰も大師に緒をくれなかったことから、いつしかこの地を「緒をくれん谷」と呼ぶようになり、後にそれが「大蔵谷」になったのだという。



【皇垣内 おがち】(兵庫県三木市久留美)
日本武尊の叔母が住まわれていた事からこの名前が付いたと伝える。
この日本武尊の叔母とは、初代斎宮倭姫命のことか、あるいは日本武尊の妃で仲哀天皇の母にあたる両道入姫命のことと思われる。



【鬼ヶ平 おにがだいら】(兵庫県神戸市須磨区永楽町(旧 西代村字鬼ヶ平))
鹿松峠(かのししまつとうげ)に現われた鬼人が住んでいたことからこの名が付いたという。
永延年間(987~989)、鹿松峠に夜毎鬼人が現われ道行く人を悩ませていた。
そのことを聞いた時の帝、一条天皇は高野山で修行をしていた英雄丸(藤原伊尹の三男、後の証楽上人)にこの鬼人の退治を命じた。
そこで、英雄丸は峠の近くに小堂を建て幾日も祈りつづけた。
かくして英雄丸の祈りは通じ、鹿松峠には二度と鬼人は現われなかったという。
この時に建てられた小堂が、後の勝福寺と言われ、毎年一月七日には鬼追(追儺式)が行われていた。
高取山西麓の禅昌寺の東を鬼ヶ平と呼び、ここがこの鬼人の棲家であったと伝える。
一説には、鹿松峠に現われた鬼人が、我は熊野権現の化身である。
我を鎮めたくばこの近くに我を祀れ。
と言われ、祀ったのが証誠神社だともいう。




【鬼ヶ原 おにがはら】(兵庫県加古郡稲美町)
もとは忍木沢(おんぎさわ)という地名だったが、蛇の化身が鬼となり現われたことから鬼ヶ原と呼ばれるようになったという。
寛政十二年(1800)創建の天満神社がある。



【鬼谷 おにだに】(兵庫県神戸市長田区大丸町、房王子町、前原町、寺池町界隈(旧 長田村字鬼谷(或いは字兎谷))
その昔、会下山の西の谷を「鬼谷」と呼んでいた。
地名の起源については定かではないが、会下山(えげやま)の「会下」とは、仏教用語で会堂や師匠の常在する集団修行場を意味し、また、光孝天皇の勅願で須磨寺(福祥寺)が建立されるまでは、会下山に恵偈山北峯寺という寺院があり、ここの本尊である聖観音菩薩が須磨寺に移されたと伝える。
それらを鑑みるに、「鬼谷」は仏教説話と何らかの関係があるのかも知れないと思われる。
また、古書には「鬼谷」を「兎谷」と書き記したものも見受けられるが、これは鬼谷を兎谷と見誤ったものが何時しか定着したものと思われる。
ただ、乱暴な解釈をすれば、(「兎谷」が先であるとするなら)会下山は古くは「宇奈互丘」(うなごおか、この表記は「宇奈弖丘」(うなでおか)の誤読とされる)と呼ばれていたことから、「うなごおか」の西にある谷なので「うなご谷」となり、それが「うなぎ谷」となり、「うさぎ谷」と変化していったのかとも考えるが、野生の兎が多く棲んでいた谷と解釈するほうが自然かもしれない。



【落地 おろち】(兵庫県赤穂郡上郡町落地)
かつて赤穂郡の船坂村は「舟坂村」と書き、伝承によるとここに巨大な湖があり、『記紀』(古事記、日本書紀)に登場するヤマタノオロチ(八岐大蛇)がこの地に棲んでいたと伝え、そのため村の名も「大蛇(おろち)村」と呼ばれていた。
有名な素戔嗚尊(須佐之男命)のヤマタノオロチ退治は出雲ではなく、本当はこの地であったと地元では語り継がれていた。
明治時代に「大蛇」から「落地」(おろち)に表記が変更された。



【烏原 からすはら】(兵庫県神戸市兵庫区烏原町)
願成寺縁起によると、天平年間(729~749)攝津国を行脚していた行基が、ここ上野村に聖徳太子の作という観音菩薩を祀り観音寺とした。
安元年間(1175~1177)、衰退していた当寺を東大寺の実遍の子で法然上人の弟子であった住蓮が中興して願成寺と称した。
建永元年(1206)、住蓮が同門の安楽と共に念仏会を催した時、後鳥羽上皇の愛妾松虫、鈴虫の二人が住蓮に帰依し髪を落とし尼となってしまった。
その事に激怒した上皇は、住蓮、安楽の二僧を近江国馬淵村で処刑してしまった。
しかし、住蓮の首は蓮となり上野村へと帰ってきた。すると、その種を求めて多くの烏が群れ集まり鳴き続けたので、それに気付いた村人によって住連は手厚く葬られたという。
また、住連の首を烏が近江からここ上野村の願成寺まで咥えて運んできたのだともいう。
以来、この地を上野村から烏原村というようになったと言う。


【唐櫃 からと】(神戸市北区唐櫃台)
『唐櫃(からと)』という地名がある。
この唐櫃の『櫃』という字、実は『ひつ』とも読める。
櫃(ひつ)とは蓋がついた箱で、古くから現在に至るまで収納用に多用されているのだが。
4本または6本の脚のついた櫃は唐櫃(からびつ、かろうど、かろうと)といい、宝物・衣服・文書・武具などの内容物を湿気から守るために用いられてきた。
棺(ひつぎ)も唐櫃と呼ぶ。
ただし本来は「屍櫃」の意味である(屍をカラと呼ぶ現代語例として「なきがら」などがある)。
このことから、墓石下の遺骨を納める空間(納骨棺)を、「かろうと」から「カロート」というようになった。


【黒川 くろかわ】(兵庫県小野市黒川町)
『播磨国風土記』賀茂郡の条に「自死江・黒川」とあり、応仁天皇の時代に部族間の争いがあった。
その時、天皇の命により多くの者が誅殺され、流れ出した血があたかも黒い川のようであったことからこの地を黒川と名づけたとある。



【神戸 こうべ】(兵庫県神戸市)
「しゃれこうべ」に由来するというがそれは付会。
神戸は生田神社の神戸(かんべ)を起源とする。
神戸(かんべ・じんこ)とは、神社の近くに住んでいた神社の経済を支えた住民の集落を意味するもので、神封戸とも言った。
『新抄勅格符』には、大同元年(806)、生田神社に四十四戸の封戸(ふご)を神の奉仕者として与え、神戸と言ったとある。
古来、「かんべ」と呼んでいたものが、後に「こうべ」に変化したものであり、古くは「紺部」(太平記)、「神部」(黒谷上人伝)、「上辺」(摂陽群談)などと記されていることからもわかる。



【五計佐 ごとさ】(兵庫県神戸市長田区片山町(旧 長田村小字五計佐))
詳細不明。
五兵衛佐などの土地を開拓した人物に由来するものか。



【コセンダ こせんだ】(兵庫県神戸市長田区久保町(旧 西尻池村小字コセンダ))
千駄木を焚いて雨乞いをした所という。



【ザクゲ原 ざくげはら】(兵庫県神戸市東灘区本山町北畑ザクゲ原)
保久良神社鳥居前、日本武尊神話の「灘の一ツ火」がある。
現在の地名表記は「ザクゲ原」だが、ザクガ原、ザフクガ原、ザフクケ原などの表記も見られる。
その奇妙な地名は、雑木の生い茂った場所という意味の「雑木ガ原」に由来すると考えられる。



【死野 しにの】 (兵庫県朝来郡生野町)
銀山で有名な兵庫県の生野は古くは死野と呼ばれていた。
それは、ここに荒ぶる神が居て、往来の人の半数をとどめて殺したことから死野と呼ばれたのだと伝える。
また、死野の志爾嵩(しにだけ)では伊和大神と天日槍の二神が土地の帰属を争い、黒葛(つづら)三条を足につけて投げて占居地を決めたという伝説がある。
『播磨国風土記』神前郡の条に、「この地はもと死野であったが、これを嫌って生野に改めた」とある。



【シル谷 しるだに】(兵庫県神戸市灘区長峰台(旧 篠原村字シル谷))
詳細不明。
「後(うしろ)谷」或いは「城谷」、「白谷」の意か。
昭和四十四年頃、地域住民より「シル谷」等の地名を変更して欲しいとの要望が有り、同四十五年六月一日に現在の「長峰台」に改称された。



【渋人谷 しぶとだに】(兵庫県神戸市須磨区多井畑字渋人谷上、同渋人谷下(旧 多井畑村字渋人谷))
「死人谷」の意と思われるが詳細は不明。
「しぶと」とは「死人(しびと)」のこと。



【小赤壁 しょうせきへき】(兵庫県姫路市木場) 
東西800㍍に及ぶ流紋岩の海食崖の名称で、文政八年(1825)頼山陽が姫路藩の家老河合隼之助(寸翁)の設けた山校仁寿山校を訪れた時、ここに来て、この風景が中国長江の「赤壁」に似ている事から「小赤壁」と名付けたことに始まる。
中国の赤壁の名の由来は、後漢の時代、西暦208年に曹操と孫権・劉備の連合軍が湖北省嘉魚郡西方で戦い、激戦の余り双方に多くの戦死者を出し、長江の断崖が一面朱に染まった事から赤壁と名付けられた。



【シンド山 しんどやま】(兵庫県神戸市西区伊川谷町潤和シンド山)
詳細不明。
前方後円墳、群集墳などがある。
新しく御堂が建てられた山で「新堂山」、或いは新しく開拓された山で「新戸山」の意か。
また、「新道山」なども考えられる。
愛知県瀬戸市上水野にも「字シンド山」という地名がある。



【吸谷 すいたに】(兵庫県加西市北条町吸谷)
加西市の西部、北条町吸谷はかつて修布(すふ)と呼ばれていた。
太古、一人の女性がこの地に有る井戸に吸い込まれて亡くなった。
以来、この地を修布(すふ=吸う)と言うようになったという。
後に、修布の里にある谷ということで吸谷となった。
余談ではあるが、吸谷には白鳳期に鴨国造の一族が建立した吸谷寺があった。
吸谷の観音寺の庭園には三十に及ぶ吸谷廃寺の礎石が残り、中央公民館には近くの瓦谷と呼ばれる窯跡から出土した細辨十六葉蓮華文軒丸瓦が保管されている。



【摺粉鉢 すりこばち】(兵庫県神戸市中央区葺合町字摺粉鉢)
詳細不明。
地形が擂り鉢状をしていたのか、或いは近傍に在る滝山城に関係するものか。



【ソウレン道(葬歛道) そうれんみち】(兵庫県神戸市)
A:(神戸市中央区 通称春日野道)
春日野道はかつて「ソウレン道」と呼ばれていた。
明治27年、神戸市が春日野と呼ばれる山麓の一角に市営墓地を造成した。
その墓地に向かう道であったのでソウレン道と呼ばれていた。
明治末期から大正にかけて企業の進出に伴いソウレン道は繁華街となり、今はこの名前を知る人も少ない。

B:(神戸市兵庫区上沢通~会下山町)
明治時代、会下山の東部に斎場が在った。
その斎場に向かう道(神戸市兵庫区上沢通二丁目から北の川崎病院に向かう道)であったので「ソウレン道」といった。
斎場が房王寺町(同市長田区)に移転してからも、葬送に使われていたが、後に斎場が鵯越(同市北区)に移転してからはその名前も失われつつある。
(※ソウレン:方言で葬式のこと)



【戦 たたかい】(兵庫県佐用郡上月町下秋里字戦)
浅瀬山城の北方にあり、浅瀬山城主上月権正恒織と羽柴秀吉勢の古戦場と伝える。
天正五年(1577)十二月、上月城を攻略した羽柴勢が毛利勢を追って当地にまで進攻してきた時、浅瀬山城主上月恒織が手勢を率いて羽柴勢の側面を突き、毛利勢の退却を容易にしたが、力及ばず恒織は討死、浅瀬山城は落城した。



【反高林 たんたかばやし】(兵庫県神戸市東灘区住吉町反高林)
「反高場」と呼ばれる土地で林であった事に由来する。
反高場とは土地が痩せて作物の収獲が望めない粗悪な土地に、反別だけ検定し僅かな税を掛けていた免税地に近い土地のこと。



【稚児ヶ墓山・花折山 ちごがはかやま・はなおれやま】(兵庫県神戸市北区山田町坂本)
稚児ヶ墓山、花折山は攝津と播磨の国境にまたがる丹生連山の一角を成し、秀吉の明要寺焼討ちにまつわる悲しい話が残っている。
丹生山にかつて明要寺という大伽藍があった。
明要寺は時の領主、三木城主別所氏の信仰厚く、毎年五百石の寄進を受けていた。
天正六年(1578)、織田信長より播磨平定の命を受けた羽柴秀吉と別所氏の間に戦が起こり、秀吉は大軍を率いて三木城を包囲、おのず籠城戦となった。
この時、明要寺は累代の恩顧に報いるため兵糧の城内搬入に働いた。
「童僕児輩、僧侶に至るまで、敵の厳重なる監視の中を種々に変装して糧道輸送の任に従事。しかるに別所氏が秘密裡にするこの計画もやがて秀吉軍の探知するところとなり、兵糧輸送の雑人らは捕らえられ一人残らず殺戮された」(三木戦史)という凄惨な結末となった。
この時、明要寺は焼討ちにあい、武装した僧侶たちの多くは逃げ場を失い深い谷へと落ちて死んでいった。
また、寺には多くの稚児もいた。
戦闘が始まり、これらの稚児は一団となって北東の尾根伝いに落ち延びていったが、遂に今の稚児ヶ墓山の山上にて秀吉軍に発見され、悉く切り殺された。
時に天正七年五月二十二日、雨の夜だったという。
後日、それを哀れに思った里人らにより稚児の亡骸はこの山の頂に葬られた。
以来、この山を稚児ヶ墓山と呼ぶようになった。
また、この稚児ヶ墓山の東の峰は、あわれな稚児達の墓に供える花を里人がよく手折った所だったので花折山と呼ばれるようになったという。



【血の谷 ちのたに】(兵庫県養父郡八鹿町八木)
八木城西側の谷を血の谷という。
八木城には朝倉氏の流れを汲む八木氏が代々在城するが、天正八年(1580)羽柴秀吉に降り、因幡攻めに加わった。
城址に伝わる血の谷、フルヤが谷の地名は、この天正八年の合戦の時のことか、それ以前の合戦のことかは定かではない。



【手野 ての】(兵庫県姫路市手野)
手野という地名の由来は、『播磨国風土記』飾磨郡の条によると、応神天皇が当地の手沼(てぬ)川で御手を洗われたからだとも、賊の手を切り落とした所だからとも伝える。



【田楽目 でんがくめ】(兵庫県神戸市長田区片山町(旧 長田村小字田楽目))
詳細不明。
豊作を祈願して田楽が舞われた場所か。



【胴長平 どうながひら】(兵庫県神戸市須磨区明神町(旧 板宿村字胴長平))
詳細不明。
禅昌寺の南に位置することから、「堂南ヶ平」の意か。



【墓ヶ平 はかがひら】(兵庫県神戸市灘区桜ケ丘町(旧 高羽字墓ヶ平))
かつては高羽字墓ヶ平と呼ばれ、墓地があったのだろうといわれる。
昭和31年2月に桜ケ丘町と改められた。
余談ではあるが、昭和39年12月10日、ここより銅鐸14個、銅才7本が発見され桜ケ丘の名は一躍全国的に有名になった。



【墓ノ本 はかのもと】(兵庫県神戸市東灘区本山北町(旧 小字墓ノ本))
近傍に古墳か目印となるような墓碑、或いは墓地があったものと思われるが詳細は不明。



【墓山 はかやま】(兵庫県神戸市兵庫区高松町(旧 東尻池村字墓山))
古墳か目印となるような墓碑、或いは墓地のある山があったと思われるが詳細は不明。



【箱木谷 はこぎだに】(兵庫県神戸市北区淡河町中山)
淡河町中山と淡河町野瀬の境から山田町へ越える道に箱木谷がある。
古代、神道では死を穢れとして忌み、棺に用いる木材を伐採する山を限定した。
その棺用の木材を切り出した所だったので箱木谷と言った。



【箱木谷 はこぎだに】(兵庫県神戸市垂水区下畑町)
第二神明道路の南側と松風台一丁目の間辺り。
神戸市北区の「箱木谷」と同じ様に、棺に用いる材木を伐採する場所であったと思われる。
詳細は不明。



【箱木原 はこぎはら】(兵庫県神戸市東灘区本山北町(旧 小字箱木原))
神戸市北区の「箱木谷」と同じ様に、棺に用いる木材を伐採する場所であったと思われる。
詳細は不明。



【鳩ヶ釜 はとがかま】(兵庫県神戸市須磨区白川台(旧 白川村字鳩ヶ釜))
詳細不明。
源平合戦での畠山重忠の一夜城伝説に関係するものか。
海の側なら鳩は「波止」の意かとも思うのだが、海からは離れている。
「釜」は湧水源のある場所に多く見受けられる。



【ハラキリ堂 はらきりどう】(兵庫県神戸市須磨区大手町)
勝福寺石段上り口左手、証楽上人墓所のあたりを「ハラキリ堂」と呼んでいる。
『太平記』によると、観応二年(1351)二月、弟足利直義と御影の浜で戦って敗れた足利尊氏が、高師直、師泰とともに当地の松岡城に入り、今まさに自害しようとした時、和議が成立したので京都に帰ったとあり、「ハラキリ堂」という地名はこの故事に由来するという。



【飯山寺 はんざんじ】(兵庫県三原郡西淡町飯山寺)
かつてこの地に飯山寺という寺があったことに由来する地名。
この飯山寺は、桓武天皇に無実の罪を着せられ憤死し、遺骸を淡路島に流された早良親王の怨霊を恐れた桓武天皇が供養の為に建立した寺と伝える。
飯山寺は廃寺となり、現在は八坊あった末寺のうちの一つ、宝光寺のみが残っている。



【降る矢が谷 ふるやがたに】(兵庫県養父郡八鹿町八木)
八木城南側の正面の谷をフルヤが谷(降る矢が谷)という。
八木城には朝倉氏の流れを汲む八木氏が代々在城するが、天正八年(1580)羽柴秀吉に降り、因幡攻めに加わった。
城址に伝わる血の谷、フルヤが谷の地名は、この天正八年の合戦の時のことか、それ以前の合戦のことかは定かではない。



【ヘノ字山 へのじやま】(兵庫県神戸市兵庫区御崎町(旧 尻池村字ヘノ字山))
詳細不明。
「ヘ」の字形の山或いは、「辺野路山」という様な名前の山でもあったのだろうか。
和田山に平清盛の内裏があった事を考えると、「塀の内山」で禁制地でも在ったのだろうか。



【坊ヶ塚 ぼうがづか】(兵庫県神戸市東灘区住吉町坊ヶ塚)
永正元年(1504)に起こった「慈明寺流れ」と呼ばれる大洪水で亡くなった僧侶を葬ったといわれる坊ヶ塚があったことからこの名が付いた。
一説にこの坊ヶ塚は前方後円墳であったともいうが、明治七年の住吉駅新設のための土砂採集により消滅してしまった。




【保久良(神社) ほくら(じんじゃ)】(兵庫県神戸市東灘区本山町北畑ザクゲ原 保久良神社)
『日本書紀』では石神神宮に千本の剣を収めた蔵「天神庫」を置いたといくくだりがあり、「天神庫」を「あめのほくら」と読ませている。
この事から、ホクラとは「宝蔵」(ほうくら?)の意味ではないかという。
また、一説には、古代日本語で「ホク」は祈り、祝い、呪(まじな)いを表し、そこから祠(ほこら)という言葉が生まれとあり、境内に鎮座する磐座(いわくら、神の依り代)をホクラと呼んだことに由来するのでは無いかとも言われている。



【水の子 みずのこ】(兵庫県神戸市長田区)
西尻池村の旧字に「水ノ子」というのがる。
その昔、妙法寺の大池から高取山の麓を流れ駒ヶ林に注ぐ三本の川があり、東を大水ノ子、中を小水ノ子、西を出水ノ子と呼んでいた。
『西攝大観』には、「大水の子、小水の子、出水の子などの地名が存してをるのは、何れも水夫どもの居住してゐた遺跡である、現今にても駒ヶ林の水夫は独特の操櫓術を有しゐることなどは古来の因襲の然らしめた結果である」とあり、水夫もしくは漁師の居住地だと説いている。
しかし、この水ノ子という地名に関して落合重信氏(兵庫県地名研究会代表)は、堕胎、間引きの水子(見ず児)を葬った所ではないかとの推論を出されており、今後の検証が待たれるところである。
余談では有るが、大水ノ子、小水ノ子、出水ノ子のそれぞれの河口には古墳があったと伝え、その一つ、八尾善四郎(兵庫運河創設者)の所有地にあった大水ノ子古墳は、周囲約40メートル、高さ約2.7メートルの円墳で、破壊された時に金環3個、切子玉、鉄器、土器などが出土したことが当時の新聞に報道されている。



【箕谷 みのたに】(神戸市北区)
詳細不明。
一説ではその昔、この辺りは蛇が沢山出ることから「蛇の谷」と呼んでいたそうだ。
「蛇の谷」が訛っていつしか「みのたに」と呼ぶようになり、「蛇谷」では縁起が悪いという事で漢字表記が「箕谷」になったとか。


【女女ヶ谷 めめがだに】(兵庫県神戸市灘区長峰台(旧 篠原村字女女ヶ谷))
詳細不明。
昭和四十四年頃、地域住民より地名を変更して欲しいとの要望が有り、同四十五年六月一日に現在の「長峰台」に改称された。



【焼ヶ平 やきがはら】(兵庫県神戸市垂水区東垂水町)
東垂水町の小字に「焼ヶ平」があり、その昔野焼きをしていた所とも、火葬場があった所だとも伝える。
余談だが、東灘区住吉町にも焼ヶ原という地名があり、ここは耕作不適の地ということからこの地名が付いたらしい。



【脇浜(町) わきのはま(ちょう)】(兵庫県神戸市中央区脇浜町)
伝承によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、皇子をこの浜に上陸させ、脇楯で頓宮 (仮の宮)を造ったことから、この辺りを「脇楯の浜」と呼ぶようになり、それが何時しか「脇浜」になったという。
実際は、この少し東に敏馬(みぬめ)神社(神戸市灘区岩屋中町)があることからこの辺りを「敏馬の崎」と呼び、その脇の浜にあたることからこの地を脇浜と呼ぶようになったらしい。



【油壷 あぶらつぼ】(神奈川県三浦市)
神奈川県三浦半島の南西部にある油壷湾は、湾内に風が無く、穏やかな海面はあたかも油を入れた壷のようであることからこの名がついたという。
しかし、これにはもう一つの説がある。
それは永正十三年(1516)、この地にある三浦氏の居城新井城を北条早雲率いる大軍が攻撃した時の事。
三年にわたる攻防戦の末新井城は落城、三浦氏は滅びた。
その攻防は壮絶を極め、敵味方多くの戦死者たちの血で湾は朱に染まったと言う。
そのおびただしい血に覆われた湾が、まるで油を入れた壷のように見えたことからこの名前がついたのだともいう。



【樟葉 くずは】(大阪府枚方市)
『日本書紀』によると、その昔、崇神天皇が戦を起こした時、官軍の追撃に敵兵が怖れまわり、屎が褌から漏れたという。
以来、その地を「屎褌」(くそばかま)と呼び、それが後に訛伝して「樟葉」になったという。



【人形峠 にんぎょうとうげ】(鳥取県東伯郡三朝町・岡山県苫田郡上齋原村)
鳥取県東伯郡三朝町と岡山県苫田郡上齋原村の県境にあり、日本最初の堆積型ウラン鉱床が発見されたことで有名。
その昔、この峠には大きなクモ(蜂ともいう)が棲み付いていて、山越えする人々を度々襲っていた。
そこである男が藁人形でクモを誘き出し退治したという伝説があり、以来この峠を人形峠と呼ぶようになったのだという。
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