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稚児ヶ墓山物語(兵庫県神戸市北区山田町坂本)




今ではこの物語を知っているカタリベの数は少なくなったが、この土地に住んでる以上は知らなくてはならない。ちごがはかやま・はなおれやま
稚児ヶ墓山・花折山(兵庫県神戸市北区山田町坂本)

稚児ヶ墓山、花折山は攝津と播磨の国境にまたがる丹生連山の一角を成し、秀吉の明要寺焼討ちにまつわる悲しい話が残っている。
丹生山にかつて明要寺という大伽藍(※だいがらん・大きな寺院)があった。
天正6年(1578)、織田信長は播磨地方平定の命令を羽柴秀吉に出した。
だが明要寺は信長に反旗を翻した三木の別所氏に味方してしまい、三木城への食料補給ルートになっていたことを秀吉軍が発見。
羽柴秀吉と別所氏の間に戦が起こり、秀吉は弟秀長と大軍を率いて三木城を包囲し、自然と籠城戦となってしまった。
この時、明要寺は焼討ちにあい、武装した僧侶たちの多くは逃げ場を失い深い谷へと落ちて死んでいった。
また、寺には多くの稚児(子供)もいた。
戦闘が始まり、これらの稚児は一団となって北東の尾根伝いに落ち延びていったが、遂に現在の稚児ヶ墓山の山上にて秀吉軍に発見され、切り殺された。
死者数千人と言われる凄惨な戦い。
時に天正7年5月22日、雨の夜だったという。
後日、それを哀れに思った里人らにより稚児の亡骸は見晴らしのいい山の頂に葬られた。
以来、この山を稚児ヶ墓山と呼ぶようになった。

また、この稚児ヶ墓山の東の峰は、あわれな稚児達の墓に供える花を里人がよく手折った所だったので花折山と呼ばれるようになったという。
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