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六甲山




【六甲山】

<カタリベの話>
なあ、知ってるか?
君が住んでるその土地の話。
なんとなくは分かっても、はっきりとは知らないだろう。
やれショッピングだスイーツだと三ノ宮の繁華街でふらふらしている観光客かぶれの神戸市民さんには縁のない話だ。
興味が無いならとっとと帰んな。
こっちは食う寝る時間も惜しんで、膨大な量の資料を漁って。
時には説明のつかない奇妙な現象に頭を悩ませながらもこの話を書いてるんだ。
生半可な気持ちで聞いてるようじゃあ、このお話は教えられないな。
俺はカタリベ。
語って、騙って、様々な人の話を(それもほんの一部にすぎない)記録し、伝える者。
これまで色々な話を聞いてきた。
そして、これからも。


さて。
大阪湾を前に屏風のようにそびえる標高931.3m
何の話か分かるか?
山だわな。
やま。
夜魔。
兵庫といえばまず六甲山の話がなければ始まらない。
近代の開発による都市背山としてのリゾート地…君等が想像する六甲山は大体こんなところだろう。
嘆かわしい。
それは昭和時代の話だ。
違うんだよ。
俺が話したいのはそのもう少し前。
明治元年頃から大正の終わりの六甲山の話がしたいんだよ。
と、言ってもやれ水害だ空襲だで明治元年頃から大正の終わりの頃の現存する資料は無いに等しいが。
おっと、いけねぇ。
話が逸れた。
リゾート地という特徴を見せる以前の六甲山は、生活の場であり、信仰の場であったのを知る者は少ない。
『またオカルトか?』なんて言いながら顔をしかめるのは止めてくれよ。
正直に言うと俺も怖い話は嫌いなんだよ。
それでも山について語るならオカルトは切っても切れない仲なわけだ。
『何故山を語る上でオカルトは外せないのか?』
そんなもん、理由は各自で調べてくれ。
俺も暇じゃないんでね。
六甲山は平安時代から山岳信仰・修験道の行場として有名だったという。
やがて豊かな森は、江戸時代の薪燃料の伐採や土地利用で失われ、ついに六甲山は「禿山」と呼ばれるようになったという。
明治後半から治水砂防工事や植林により、現在の六甲山はまた緑豊かな山へとなったんだってよ。
大体のざっくりした六甲山の歴史はこれで分かったと思う。
それじゃ、いこうか。

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雨乞いの様子

【摂津有馬六甲山権現】
摂津有馬六甲山権現を知っているだろうか?
芦屋川や住吉川の源流の分水嶺にある「石の宝殿」って言えば分かるだろう。
この「石の宝殿」は水神様だ。
日照りが続くと人々はここへ上り、蛙を叩きつけたり、沢蟹を塗りつぶしたりして石の宝殿を汚して水神を怒らせて洗い流す雨を降らせようと雨乞いしたという記録が残っている。
勿論、ちゃんとお供え物もあった。
そのお供え物は灘五郷の酒だったという。
石の宝殿の祠の近くのミツバウツギの根元に埋められた黄金の鶏が元旦夜明け前に高らかに鳴くという伝説があるそうだが、この伝説を知っているのは一体何人いるだろう?


【六甲山頂上の山神堂】
水神様の記録は残っているが、山神様の記録となると簡単にはいかない。
民俗学的に考えて、水神様があるのなら山神様もあるはずなのだが、残念ながら記録媒体は見つからなかった。
六甲山及び周辺には古代の役行者や法道仙人などの伝説的な人物が開いたという霊場や寺院が多いのだが、どれだけ探しても山神様の記録だけは残っていなかった。


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一軒茶屋の石碑


【一軒茶屋・二軒茶屋】
一軒茶屋は現在の東灘区本山町森748−1にあり、今でも登山者の憩いの場として営業している。
二軒茶屋は現在ではもう跡形も無い。
いや、あるにはあるのだが現在ではゴルフクラブになっている。
そこのあるのは地名のみである。

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牧野富太郎


【有名な逸話】
明治14年(1881年)、植物学者の牧野富太郎が高知から神戸に初めて来た際、船上から六甲山を見た時、
「私は瀬戸内海の海上から六甲山の禿山を見てびっくりした。はじめは雪が積もっているのかと思った」と言い放ったのは有名な話。

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昭和4年の六甲山ホテル


【六甲山ホテル発行の地図】
現在でも親しまれているクラシック・リゾートホテルと言えば六甲山ホテルだろう。
昭和4年に宝塚ホテル別館として開業した六甲山ホテル。
建築家、古塚正治によって設計されたという。
現在も開業当時の建物が旧館として現存し、宿泊もできる。
その六甲山ホテルには地図が展示されている。
『最新六甲山頂記念碑附近明細地図』という名前の地図だ。
この地図、最新とは表記してあるものの、実は昭和6年に六甲山ホテルが発行した地図なのだ。
今でも六甲山ホテルに行けば展示されているので見に行ってみるのもまた一興だろう。

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記念碑台のグルーム記念碑

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A・H・グルーム


【101と開祖之碑】
六甲山開拓は、明治元年(1868年)に来神(※神戸に来ること)したイギリス人貿易商A(アーサー)・H(ヘスケス)・グルームによって手がけられた。
1895年(明治28年)、三国池に自らの別荘を建て、さらには別荘地を外国人に分譲したという。
グルームの別荘は、彼の商館が居留地101番にあった為、『101(番屋敷)』と呼ばれたという。
そのグルームにも面白い逸話がある。
ある日、グルームは猟師に追われ別荘の敷地へ逃げ込んできた狐を匿った。
狐は付近に住みつくようになり、グルームの膝の上で眠るほどに懐くようになった。
狐はグルーム以外にはまったく懐かず、グルームが死ぬと姿を見せなくなった。
1919年、グルームに匿われた狐が乗り移ったという男が中山手通に住んでいた家族のもとを訪れた。
この出来事をきっかけに家族は六甲山に祠を作って狐を祀ることにした。
グルームが匿った狐の尾が白かったことから祠は白髭神社と名付けられた。
この祠は現在六甲山ホテルの西にある。
もう一つ、逸話がある。
グルームがゴルフ場の建設工事を行っていた頃、外国人の子供が建設予定地の近くにあった地蔵にいたずらをして首を折った。
グルームはこの地蔵に新しい首をつけて別荘内に安置するとともに、新しい地蔵を作って元の場所に置いた。
この地蔵はグルーム地蔵と呼ばれ、後に近くから出た湧水は味が良いと評判になったという。
1911年、グルームの六甲山開発における功績をたたえて記念碑を建てる計画が持ち上がった。
グルームは
「私は神様ではない。死んでからにしてくれ」
と断ったが計画は実行に移され、高さ3メートルの石碑『六甲山開祖之碑』が後に記念碑台と呼ばれるようになる山上に設置された。
この石碑は太平洋戦争中の1942年に『敵国人の顕彰碑』として軍部の手によって破壊されたが、終戦後の1955年に『六甲山の碑』として再建された。


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十国展望台

【十国展望台】
六甲山展望台。
かつては『六甲山 回る十国展望台』と言われていた。
が、何故十国なのか知る人は少ないだろう。
旧の国名で10の国(山城・大和・摂津・河内・和泉・紀伊・丹波・播磨・淡路・阿波)を見渡せるので命名されたという。
かつては『100万ドルの夜景(日本円で約8240万円)』と言われていたが、現在では『1000万ドルの夜景(日本円で約8億円)』と言われる神戸・阪神の眺望を楽しめる名所である。


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三国岩


【六甲山頂上三国岩】
三国岩はかつての武庫・菟原・有馬の三郡の境界点だった。
(この岩の上に立てば、摂津・播磨・淡路の三国が見渡せることから三国岩の名がついたという説もある)
三国池の近く、標高802.5m、丁字ヶ辻と六甲山牧場の中間にある。


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三国池

【三国池】
英国人グルームはこの池のほとりに別荘『101』を建てた。
三国池は今も美しい湖面を見せている。


【六甲山頂の郵便局】
明治後期から大正初期。
避暑などで滞在する外国人が増加するにつれ、山上に郵便局を設置する必要性が高まってきた。
プライベート、ビジネス問わずに彼らの通信が山上から発信されるためである。
明治43年(1910年)6月、茶店の一角で開局したが翌年に局舎を新築した。
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