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再度山大竜寺




【再度山大竜寺】

【道鏡】
奈良時代の法相宗の僧。
物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子。
俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。

【和気清麻呂】
奈良時代末期から平安時代初期の貴族。

【弘法大師(空海)】
平安時代初期の僧。
幼名:真魚(まお)
俗名:佐伯
法名:教海→如空→空海
諡号:弘法大師(921年追贈)
尊称:弘法大師、空海上人
生地:讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)
没地:高野山
宗派:真言宗

【脇屋義助と赤松則実】
鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。


称徳天皇の治世の頃。
強大な権勢を誇った道鏡(どうきょう)は、どうしても自分に従わない和気清麻呂(わけのきよまろ)を憎んで、刺客を差し向けた。
なんとか逃れた清麻呂は、摩耶山と鍋蓋山の間の山中に逃げ込んだ。
しかし、そこで刺客に追いつかれ、殺されそうになったという。
この時、急に現れた大蛇が、刺客を倒して清麻呂の命を救ったという。
そこで、清麻呂は後に、この山中に如意輪観音を祀り、摩尼山(※まにさん・多々部山とも呼んだ)と称する霊場を開いたと伝えている。
それは神護景雲2年(西暦768年)のことだといい、その仏像は行基作の観音様だったという。

さて。
延暦年間(西暦782~805年)に、唐に渡って仏教研究をしようとした弘法大師(空海)は、長い旅の安全を祈ってこの霊場に登り、修行をした。
その後、大陸に向かう弘法大師の船は途中でしばしば悪霊のために風雨に弄ばれたが、その都度海面に大きな竜が出現して、波を遮り船を守ってくれたという。
帰国の時も同様に現れたその竜は、弘法大師の船のわきを泳ぎながら、船を波浪から守っていたが、一行が丁度神戸の沖合に帰ってくると、急に海から飛び立って北方の摩尼山に向かって消え去ったという。

「おお、これはきっと出航の時に登った摩尼山の観音様のご加護に違いない」

そう考えた弘法大師は、無事に帰国できたことを感謝し、もう一度摩尼山の霊場に登っていった。
すると山の南の谷あいに、例の竜が姿を現した。
弘法大師はその観音霊場に寺を建て、その竜にちなんで「大竜寺(大龍寺)」と名付けたという。

寺の南、竜の現れた谷は今でも蛇谷(※蛇の谷、現在の箕谷付近にあたる)と呼ばれており、人々はいつしか摩尼山(※たたべ山とも呼ぶ)のことを

「弘法大師(空海)が、唐への出発と帰国の時に2度登ったのだから、再度山(ふたたびさん)だ」

と言うようになった。
また、再度公園の中心、池の水面に周囲の松林が美しく映える修法が原(しおがはら)は、弘法大師が修行した場所なのでこの名がついたとも伝えられている。

現在の再度山大竜寺の本尊は、高さ1.8mの一木造りの菩薩立像(寺伝では如意輪観音)で、奈良時代の作とされ、国指定の重要文化財で神戸最古の仏像である。
寺の奥から更に登ると、再度山中には弘法大師の作とされる「梵字石」や「亀の石」が点在している。
そこから更に急な細い山道を登りつめると、再度山頂は狭い平坦面になっている。
よく注意して見ると、山頂付近には他にも平坦地が残っている。
これは中世の多々部城(たたべじょう)の遺構だと考えられている。
この城は、南北朝の動乱期に脇屋義助や赤松則実らがこもったと伝える山城で、大竜寺自体も戦時に城砦として利用されたのだという。
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